関東大震災

大正12年(1923年)9月1日(土)11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害である。

神奈川県を中心に千葉県・茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸に広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。

190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったとされる。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2000余棟である。地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴なった火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。

 

内村鑑三。「呆然として居る。恐ろしき話を沢山に聞かせられる。東京は一日にして,日本国の首府たる栄誉を奪われたのである。天使が剣を提げて裁判を全市の上に行うたように感ずる」。「時々斯かる審判的大荒廃が降るにあらざれば,人類の堕落は底止する所を知らないであろう」

 

安倍能成「私は一日神田明神の高台から燒滅の東京を俯敢(ママ)した。震災後十二日を経てから後のことであった.……(中略)羅馬の廃嘘!誰れいうとなくこうした声が聞えてくる。文明のはかなさ。燐寸箱のような大都会。大自然の前には児戯に等しい磯械文明。あだなりし人間の努力。無意義なりし『価値』と価値論。目的なぎ科学。遊戯にしか過ぎなかった芸術。科学の整理者にしか過ぎなかった哲学。みな等しく過ぎし世の夢ではなかったのか」

 

和辻哲郎。「自分は大地震の時日向にいたので何にも知らなかった。だから地震や火事の恐ろしさをまのあたり知ることは出来なかった。しかし来てからいろいろのことを聞くにつけて、随分恐ろしい出来事だったと思った。死んだ人の話なぞには正視できないようなことがいくらでも起ったことを知った。しかし皆過ぎてしまったことである。もう自分達には如何とも出来ない。勿論前に知っていたとしても,逃げることより他,別にいい知恵が自分にあるとも思わないが,すぎてしまえば、生き残った者は生きのこったよろこびを味わって生きてゆこうと努力するより仕方がない。」

 

寺田寅彦。「地震の災害も一年たたない内に大抵の人間はもう忘れてしまって此の高価なレッスンも何にもならない事になる事は殆んど見えすいて居ると僕は考えて居ます、来年あたりから段々人気は悪く風俗も乱れ妙な事になって来るだろうと予想して居ます、唯市街が幾分立派になるかも知れんがそれも結局は従来と大(176)した変りもなく,ゴチャゴチャとしたものになり,今後何十年か百何年かの後にに、すっかりもう人が忘れた頃に大地震が来て又同じような事を繰返すに違いないと思って居ます。……(中略)……いつ迄たっても人間は利口にならないものだと思って居ます」

 

関東大震災後には、市街地建築物法(現在の建築基準法)の規定に従った建築を行っていては住居の供給が間に合わないため、特別立法(いわゆるバラック令)により基準を満たさない建築物でも建てることが認められた。これらの多くは、小規模な住居・店舗だったが、中には築地小劇場のような比較的大きなものも建造された。こうした中で今和次郎らが「バラック装飾社」を設立し、商店などのバラック建築をにぎやかにデザインして街を彩った。バラック令は期間限定の法規であったため、期限満了後は、補強をおこなって本建築並みの基準を満たすか、または取壊して建て直す必要があった。

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