岡本太郎

既成の権威は己の地位を護るために現状維持をねがい、保守的となり、自動的に反動の立場をとる。もり上がって来る新しい力はそれを無慈悲に打ち倒さなければならないのだ。だからこそ若い世代は常に公認の画壇や批評家からは危険視され、いかがわしいものとして悪罵される。それはむしろ必須の条件である。一方にとっての芸術は他方にとっては運命的に非芸術なのだ。この相互否定の契機が深刻であればある程、却って激しく芸術は弁証法的発展を遂げるのである。だから、ますます嫌悪の戦慄を与えるような革命的な仕事が要請せれる訳なのである。

 芸術は自然科学とは異なり、連続的な発展をたどるようりも断絶によて想像的に飛躍する。この発展形式は非連続の連続なのである。神は斃されなければならない。ピカソの権威が新しい芸術家によって妥当されることは芸術史の要請である。全世界に於いて、未だにそれがあし遂げられていないということ、そこにこそ現代芸術の不幸な停滞があり、最大の危機があるのだ。(『青春ピカソ』)

 

いったい芸術に於いて単に眺めるという立場があり得るであろうか。真の鑑賞とはどうじに創るということでなければならない。観ることと創ることは同時にある。これは私の芸術論の重要なポイントであり、最も近代的な芸術の技術の根底として取り上げ、既に他の場所で十分に展開した問題である。だがここでは到底その全幅にふれる余裕はないので、鑑賞が如何に創造的であり得るかということを一言説明するに止めたい。

 創るとは決してキャンバスに向かって筆をとり、絵の具を塗ることだけではない。それは全く形式的で素朴な考え方だ。己の世界観に新しいホリゾンを内開くことが実はクリエートなのである。真に芸術作品に対した場合、鑑賞者は己の精神の中に何らかのセンセーションによって、新たに何ものかが加えられる。というよりも己れ自身に己が加えるのであるが。精神は創造的昂揚によって一種のメタモルフォーゼを敢行する。だから芸術作品と対決する以前と以後の鑑賞者の世界観、平たく云えば物の観方自体が質的に飛躍するのである。つまり創造であって、そのような創造のばなしには芸術、並びに芸術鑑賞は成り立ち得ないのである。だからこそ観るということは同時に創ることなのだ。対する作品となる。そしてもし作者以上積極的に対決を挑むならば、鑑賞者は何らかの形に於て創作家を乗り越えるのである。つまりピカソ芸術はただに讃仰するばかりでは鑑賞自体が成り立たないのだ。

 

(ピカソ曰く)「芸術家の作品が問題なんではない。芸術家自体のあり方なのだ。たとえセザンヌが彼の林檎を十層倍も美しく描いたとしても、もし彼がジャック・ミエール・ブランシュ(現代の著名な官展派画家)の如き生活をしていたとしたなら私には少しも興味がないだろう。我々にとって重大なのはセザンヌの懐疑、教訓であり、またゴッホの苦悩である。即ち芸術家のドラマなのだ。あとの全ては虚偽である。」

 

もし芸術が単に爛熟した文化の上にのみ咲く花であるとすれば、以上のような機械論が成り立たないでもない。しかし芸術に於いては最悪の条件こそ最大の飛躍の契機となるということを私は信じるのである。散文的な現実生活の矛盾苦悩は勿論精神をいためつける。しかしそれでよいのだ。最も逞しく、繊細な精神は己を制約し痛めつける物質と激しく対決する。その猛烈なぶつかりあいによって生じる火花にこと、私は真に人間的な生命と、芸術の姿を見るのである。

 

 

我々が伝統と考えるものは己の外にあるのではない。それは必ず自己×過去である。己というものを土台にし、常にそれを通して過去を見るのだ。そして我々は決して正直に見ているのではない。己のテンペラメントに符合させ、都合のよい面だけを取り上げる。いいかえれば意識、無意識に、己の与えられた市を正当化する為の努力が全面的にはたらくのである。私はそれが悪いと云うのではない。実際に、自己を外にして成立つ伝統というものは決してあり得ないからである。

伝統とは何らかの形に於いてそれに己を賭すものであり、主体的にあるものである。だからこの場合自己は最も積極的な動機である。自己が先鋭化すればするほど却って断絶の相貌を呈し、そこに伝統はより激しく、豊かに弁証法的に受け継がれる。ところで所謂伝統主義者達は自己を賭けるのではに。伝統という既成の観念によりかかえい、却って己を消し去る。そして恰も不動不変の伝統という権威があるかのように振舞うのである。っこには大きなごまかしがある。伝統の実体が何であるかは、実は彼ら相互の間でも個々の功利性が働いて全く混乱しているのだ。しかし彼らは「伝統」という錦の御旗をかかげ、それを狡猾に利用して新しい時代の動き、つまり真に伝統を推し進めるものに対して必ず反動的に働くのである。「わび」「さび」「渋み」等の封建的な奴隷的諦めの気分を基底とする「味」の世界を有効な伝統の如く主張し、蒙昧にも芸術の新鮮な動向を否定しようとするのはまさにそれである。

繰り返して云うが、伝統というものは決して単純な過去ではなく、却って現在的なものである。そして不動不変ではない。むしろ常に変貌し、瞬時も同一ではない。動的にこれを把握しない限り、主体的に生かし、押し進めることは出来ないのである。

時代遅れの伝統意識にkだわって縄文式を異質なもの、無縁なものと考える必要はみじんもない。それが我々の直系の祖先によってつくられたものであろうが無かろうが、何の意味もなさないのである。とかく封建的意識、習慣から血統といものを神秘化し、絶対的な因子であるかのように考えるのは全くナンセンスだ。我々の血統は複雑な混血であり、直系の祖先をもとめることなど不可能である。

むしろ、あの原始的逞しさ、純粋さ、つまり人間に於ける根源的情熱を今日我々のものとし取り上げて、豪快、不敵な表情を持つ新しい伝統をうち建つべきである。それこそ日本に於けるアヴァンギャルドの大きな課題ではないだろうか。(岡本太郎『縄文土器論-四次元との対話』)

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