インタラクティブな作品についての疑問

一つの表現を多くの人と共有するのを賛成することを前提として、ある芸術作品(特にインタラクティブな作品)を説明す場合に人と人の交流を強調することがあるが、どうしてもそこに偽善的なものを感じてしまう。美術において人が人と交流するのは結果であって、目的であっていけないと思う。例えば中高年の女性(おばちゃん)が、見ず知らずの人と話すきっかけに、飴玉を配ることがあるが、その飴玉の役割は会話を円滑に進めるためのツールであり、「渡す」「受けとる」という一連の行為によっておばちゃんという共同体が成立することになる。飴玉の受け渡しの行為はコミュニティーの形成の為には必要なイニシエーションである。飴玉授受の通過儀礼の儀式を経たものだけがその共同体に参加することが許される。おばちゃんのネットワークは拡げられその共同体はますます強化されていくだろう。それを強化するためだけの飴玉にどれだけの意味があるのか。
 現代美術という言われている表現活動においても、この飴玉と同じような役割を担った作品が存在する。その作品は決してその共同体を解体することはない。ただ強化するためだけのツールとしてその役割を担わされている。飴玉(作品)決して共同体を破壊しない。しかし革命的な作品には得体の知れなさが作品(飴玉)に内在しているはずである。その物体Xを受け取ることで共同体は強化されない。もしかしたら、共同体にディスコミュニケーションしかもたらさないかもしれない。そんなリスクを持った物体Xを私は求める。
 まず美術において大前提なのは、その作品と対峙をすることである。それを抜きにして人と人の繋がりを強調するならば、はじめから作品ぬきで人と対話をすればいいのではないかと思う。圧倒的に私が期待するのは、作品を見たいと思う欲望だけである。ただ単純に見ることも喜び。しかし、人との交流を目的とする多くの作品(飴玉のような)においてその表現があまりにも貧困である場合がほとんどだ。その造形がないがしろにされている。なぜ私がその種の作品を嫌悪するかと言えば、人との関わり持つ場所(世界)を否定しないことだ。その土台を自明のものとしてしまうことに疑問を感じる。
 真の作品はあるいは、岡本太郎的に表現すれば「あらゆる対象への無条件な挑みをつづける」表現は、簡単にその土台を解体してしまうだろう。危険な作品とはそのようなものだ。解体されたとしても先に進むことができる力。解体された先にできた場において共有できる対話こそ創造的だ。

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