「第二回美読会《art since 1900》」

(ホテルのロビー)
(ホテルのロビー)
(喫茶室で勉強中)
(喫茶室で勉強中)

先日、ウェスティン都ホテルの喫茶室で開催しました勉強会の報告です。
ほとんど直訳というか、グーグル翻訳したような日本語で語学力ななさを改めて実感する情けない翻訳です。 中には意味が通じないところもあり、間違いがありましたら遠慮なくご指摘ください。訂正いたします。 ウィキペディアのように内容を強化していきましょう。

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◆タイトル:「第二回美読会《art since 1900》」
 
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●日時:2012年4月7日(土)(シンポジウム13:00~16:30) (勉強会17:00~22:00)
 
●場所: ウェスティン都ホテルの喫茶室
 
●参加者:青木、杉村、西田

 

●図書:『Art Since 1900: Modernism, Antimodernism, Postmodernism 』
     (著)Hal Foster、Rosalind Krauss、Yve-Alain Bois、Benjamin H.D. Buchloh

●紹介HP:http://tomkins.exblog.jp/10032521/

 

●内容:・今回は13:00~16:30に京都国立近代美術館であるシンポジウムを参加します。
     (http://www.momak.go.jp/Japanese/news/2012/smallmusic.html
    ・勉強範囲は前回の続きでP53〈Defiance tinctured impotence〉から
      ・ロジャー・マクドナルドさんが動画で詳しく解説しています。
     ココ→ http://vimeo.com/channels/273187
    ・その章を人数分に分けて輪読形式で読み進める(順番は当日に決定)
    ・シンポジウム、勉強会のことをみんなで感想を話し合う。

 

●主催者代表:杉村順     

●企画協力:青木万樹子

 

       


(今回の内容)

 

【挑戦は性的不能の色合いを帯びる】
最初のウィーン分離派の代表だったクリムトは、世紀転換期の反伝統的反抗の前衛を通して、オーストラリア=ハンガリー帝国の歴史文化から受け継いだけが、近代的反抗の後には、ウィーンの上層階級のための装飾肖像画として表れた。
彼のルーツは、彫刻師の父が彼に美術工芸学校に通わせ、1883年には建築装飾師として登場した。そのころちょうど、ウィーンの改造のために中央リングシュトラーゼの記念建築物が完成しそうだった。彼の初期の作品は二つの新しいリングシュトラーゼの建築物の為のアレゴリカルな絵画だ。それは市劇場(1886-8)のための天井はドラマティックなハムレットの絵画と美術史博物館の玄関のための文化的代表者である女神アテナの絵画を制作しました。
 これらの成功を礎として、1894年には新ウィーン大学から「哲学」「医学」「法学」のそれぞれを代表する天井画を制作するよう彼に依頼した。これらは「暗闇を覆う光の勝利」としての啓蒙のテーマだ。クリムトはこの計画を10年に渡り断続的に制作した。そして、1900年に最初の絵画である「哲学」を発表した。しかしながら、このときまで、クリムトは分離派に巻き込まれており、完成した絵画は大学側の期待には応えそうにはなかった。哲学の殿堂というより、クリムトは苦渋に満ちた肉体が絡まる通路を表現した。不定型な空間は画面の中央のぼやけたスフィンクスと画面の底辺の光る頭(女神アテナというより妖怪メデューサを彷彿する)によって仰ぎ見られる。この世界は、暗闇が光を覆い勝利しているようにみえる。
 もしクリムトが大学の委員会の考える合理主義的哲学に疑問があれば、彼は1901年に明らかにされた治療医学においてからかっただろう。この医学はさらに他の地獄を表わしている。より多くの肉体は感覚的な無気力に放り出される。その他は死体とガイコツの集まりだ。「生と死の統一」のグロテスクな幻影。本能的な活力と個人的解体の相互浸透(ショースキー)」。それに直面した大学は強烈に拒絶した。絵画は再び拒否され、クリムトは非難された。彼の返答は犯罪的処罰の最後の一つの地獄である「法学」の手直しをした。三つの大きな図像で、情熱的憤怒の女神は、下方の暗闇の空間で裸にされ、やつれた男を取り囲む。、三つの小さな無表情な女神は上方でヒエログラフを衣服をまとっている。真実、正義、法律を寓意的に表わしている人物は男の犠牲者をほとんど助けようとしていない。その男はタコの触手に取り囲まれ、三人の罰をあたえる復讐の女神のなすがままの状態に置かれている。(一人は眠るように没頭しており、一人は執念深く凝視しており、もう一人はあたかも機会をうかがうようにウィインクをしている。)この罰は去勢を心理分析的に表わしている。男はやせており、頭を下げ、彼の性器に地殻にタコの口がある。ある意味でシーレとココシュカはこの締め付けられた男を解放するように試みるだろう。しかし、彼らの芸術では男を助けることは無理かもしれない。「彼の挑戦そのものが性的不能の精神の色合いを帯びていたのだ」とショースキーはクリムトについて書いている。これはシーレとココシュカにとっても同じように真実だ。
 これらの依頼の失敗は当時の公共美術における一般的危機の切っ掛けだった。明らかに公共的趣味と前衛絵画は一つの一群を分けた。大部分は、装飾的人々が装飾的背景に配置するスタイリッシュな階層の写実的な肖像画の描くために前衛から撤退したその後のクリムトである。彼の撤退は「本能的衝動の抑圧」を探るためにシーレとココシュカに残した。そして彼らはの歴史的言及と社会的文脈をはがされた苦悩の図像を装っている。(シーレの図像を眺めると、内面を眺めることに気づいていた)。
 シーレとココシュカは装飾的な上品なであるアール・ヌーヴォには懐疑的で、表現的に先行するポスト印象派と象徴主義の画家に向かった。(他の首都と同じように、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホとポール・ゴーギャンの回顧展は大きな影響を与えた。ノルウェー人のエドムント・ムンク(1863-1944)とスイス人のフェルディナンド・ホードラー(1853-1918)のセセッション展でも同様に影響を与えた。)
 
【人物画症候群】
裕福な鉄道員の家族の中で育ったシーレは1907年にクリムトで出会う。そして、無骨な不安定な線描様式にある彼の曲がりくねった、感覚的な線にシーレはすぐに適合した。彼の死(シーレはスペイン風によって1918に死亡)の前の10年に300点の絵画と3000点のドローイングを制作した。血の赤、大地の茶、淡い黄、漆黒の黒。彼は枯れ木のある憂鬱な風景に直接、情念の絵画を試みた。同様に傷ついた母と子の絶望的な絵画。最も悪名高いのは未成年の少女のドローイングである。彼女を性的に晒した。しかも時々彼の自画像を同様な露骨な姿勢を晒していた。もし、クリムトとココシュカがサディスティックとマゾヒスティックの相互関係を探究したとしたら、それに加えて、シーレは窃視と露出の道徳に反する歓びの一組をもう一人のフロイド主義者として探った。しばしば、彼は鏡の中を一心にじっと見る。分解するために彼の凝視と私たちの脅迫の間の差異。彼は一人の観察者としてなったように見える。自分を表示する孤独な窃視者。しかし、大部分は、シーレはダメージによって感傷的に晒すことさえも、彼自身のイメージを誇りに思う反抗的な態度には見えない。

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