【藤田直哉『前衛のゾンビたち-地域アートの諸問題』を読んで】

 この論文で重要なことは美術の質(美的価値)の問題を指摘していることだと思う。「現代美術の世界が、「問題提起」そのものが芸術性の証明であるかのような傾向を持って」くるようになり、「「地域アート」が、現代アートの中心的な活動の場になったことを巡って、「美」というもののありようが変化してきている」ことになぜなったかといえば、美術の批評理論が強力な力を発揮していた普遍的な美を求める時代からポストモダン以降の大きな物語(マルクス主義の思想的崩壊)の失墜によって多様化(島宇宙化)した社会状況のなかで、美的価値基準を失った批判は不可能となってしまい、エリート主義的な批評理論の対象である「物質的表現」よりも参加するだけで美術とのかかわりを証明できる「関係的表現」そのものを重視するようになったといえる。例えていえば、エリート主義的に自己の解脱だけを目的とした小乗仏教から「南無阿弥陀仏=アート」と一言唱えれば極楽に行ける大乗仏教への移行だと言える。近代オリンピックの創立者であるクーベルタン男爵が「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」と言ったといわれるように、地域アートの表現は参加することにこそ意義があるということだ。(もちろん人材育成や教育普及のための補助金や助成金の存在も大きい)

  アートにおける公共性ということを考えた場合、そこに共通するのは「場に集まる」ということでしかない。それが和を尊ぶ精神性を持ち合わせる日本人によって捻じ曲げられた「関係性の美学」の理論(ブリオー自身は「関係性を提示すれば良い作品ができる」と言ったわけではない)が、場に集まって仲良く楽しむというマイクロ・ユートピアな予定調和状態を支える理論的バックボートとなり、鑑賞者が参加するだけで作品の質は問われることなく、作品として完成することのない作品が公共性を盾に批評性(都合のわるい「他者の言語」)はあらかじめ排除されてしまっている。また、作家の選定においても地域に都合のわるい内容の作品は採用されず、地域との関係を乱さない人畜無害な表現だけが求めれられるように検閲されてしまっているのではないだろうか。地域に招聘されたアーティストの作品を拒否したという事例を聞いたことがあり、川俣正のアート・バーゼルでの騒動とも関係してくるかもしれません。

 最も成功している「町おこし」と言えば、高知発祥で全国に広まったの「よさこい祭り」だ。はたして「よさこい祭り」は地域参加型アートと言えるのだろうか。論文で「「単に素朴」なものの肯定が起こり、結果としてプレモダンに日本の美術が後退してしまう」との指摘は、アートと「よさこい」の判別につけがたさにもあらわれているのではないだろうか。鎌倉末期の時宗念仏や江戸末期の「ええじゃないか」にみられるものとおなじような土俗的なプレモダン現象であるといえる。民俗学の「ハレ・ケ・ケガレ」論の観点から考えれば、地域アートの祭りとしての役割は、穢さ(ケガレ)れた日常(ケ)を浄化(ハレ)させる作用があり、人類学的、精神病理学的な考察ができる。しかし、そこには大きな違いがある。けっしてそれらの現象が現代において自然現象のように広がっているのではなく、行政、国家との強いつながりによって主導されていることを見落としてはならない。論文のなかで注意を促しているように、素朴に「プレモダンを選び取る」ことの「意識的でないところが、問題」なのではないだろうか。

 地域アートは行政を介して地域内の人々は自己を承認してもらう他者(部外者)としてアート(アーティスト)を廉価に利用しているだけであり、共同体を維持するための道具として村の祭りを行っているという側面(その効果どれほどのものかは疑問だが)があることは否定できない。しかし、その考えは不自然なものではなく、美術と国家(行政)とのかかわりが深かったのは明治以後の日本の美術状況を考えたときに、きわめて自然なことだといえなくもない。国家による内国勧業博覧会の開催、公設展覧会の組織化や戦争画までつづく一連の美術表現はすべて公共性の名ももとで行われたといえる。それが美術の本来の姿であると考えるのであれば、建前であったとしても公共性にもとずいた地域アートは美術の本質を体現しているといえるだろう。この考えは「私が私であること」の個人主義的な表現と齟齬をきたすことはない。個人的概念の意識が欠如した社会で近代国家は成立しない(でもアナーキズムもあるけど・・・)。

  それは近代的理念が初めて成立した西欧において同じことがいえる。フランスで市民革命を実現した革命政府は、ルーブル美術館(1973)と産業博覧会(1798)を市民に祝祭的空間施設として公開している。しかし、それは伝統的な祝祭がもつ「無礼講」などの逸脱するような行為ではなく、政治的な理念を啓蒙する(あるいは自己の行為を正当化する)プロパガンダの役割を持っていた。多木浩二は『「もの」の詩学』のなかで「それ(芸術としてもの)は美術館の成立と固く結びついている」。そして「公共的な美術館が生まれるためには新古典主義的思考が必要であり」、「ある種の「もの」が美術館と結合するかぎりにおいて「芸術」として成立する現代の経験の大枠が、大革命の前後十数年を中心に生じてくるのを見ることができる」としているように、芸術と国家との結びつきは西欧においても強固なものがあるといえるだろう。デュシャンのレディ・メイドは制度によって保証された美術作品が「もの」でしかないと批判したのは、「もの」から「作品」の移行を「作品」から「もの」へかえす試みであり、地域アートの活動も結果的に作品をもの化することに貢献しているといえる。
 
 そもそも単純に考えて関係性をもつことなく作品をかかわることができるのかという素朴な疑問だ。「アクション」のない美術作品は存在しないことと同じで、ことさら関係することを主張したところであまり意味はない。単に自己の立場を確立するためにレトリカルな言説を作り上げたいだけなんではないかと思ってしまう(あるいはレトリカルでない言説は幻想か?)。人が作品を鑑賞している以上、そこに関係性がうまれるのは当然の話しだ。もし地域系アートの場合、作品との関係のあり方がいままでの鑑賞方法と違うというのであれば、その関係によって生み出された作品の質こそ批評の対象とすべきであろう。批評が欠落したまま関係そのものが正当化される状況には疑問を感じる。「地域アート」だからといってそれだけで作品の評価に結び付くわけではない。個々の作品について批判的に評価することが必要なのは言うまでもない。
 
 作家と作品との関係においても同じこといるだろう。地域アートの場合は作品に鑑賞者を参加させることを目的とするが、画家が絵具をつかって絵を描くように、地域系アーティストにおいても鑑賞者を作品の素材(道具)として扱うことによって作品が成立しているといえる。あるいは岡崎乾二郎が文庫版「経験の条件」のあとがきで書いているように「媒体=メディウムを単なる手段ではなく、それ自体が自律した系として変化し運動する、独立した回路だと考えるべきであること、メディウムをむしろ人と対等に対向する別の主体と考えるべきであるとの発想」によって、「それと協働することで新たな運動を形成する」ことができるとする。そこには一見すると人は介在していなようにみえるが、表面的な理解はメディウムを人として扱うことによるダイナミックな関係性がうみだされている。
 
 芸術というのは人類が誕生したときからそれ以外のものから区別されてきた概念ではない。ダントの芸術終焉論で「芸術であるといえばそれが芸術になる状況」を経験している私たちにおいて「芸術のための芸術」であると自律性を主張することは歴史的なものでしかいとういのは自明なものとなっている。ダントのいうアートワールドが言説の重要性を説いたように、作品を含めた「もの」が関係性のうえで成り立っているものであるといえる。多木浩二が「ここで「もの」というとき「出来事」と截然と区別しているのではなく、「もの」という実在感ないしは物質感の強い言葉もその相互関係や転移を前提にした上で使っているにすぎない」。そして「「もの」と「出来事」が浸透しあい、新しい「芸術」がやがてそこから生じ、また「芸術」が絶えず照合されなければならない地層が形成されている」「文化のトポス」であると説明している。
 
 キルケゴールは「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか。 自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」ことを『死に至る病』の冒頭で人間とは何かと論じているが、キルケゴールが考える人間の基本的な条件とは、世界は関係によって作られてるがその関係さえ組み替えることができるとしたところではないだろうか。それが実存主義の始まりといわれている。芸術の役割とはなんであろうか。坂口安吾がいうように「鎮静剤」として、あるいは「安楽椅子」「癒し」としての作用しか持ち獲ないものであろうか。もし美術の役割が「世界を全的に変えてしまうような力(私達に新しい世界を気づかせてくれること)」にこそ美術の役割や批評性があるのではないだろうか。批評性を持つためにはある価値基準を確立する必要がある。しかし、大きな物語が失墜し日々状況が変化するなかで抑圧的に作用する価値基準(美的価値)を共有しようとすることはきわめて困難な道だ言わざるを得ないだろう。

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