過去の覚え書き

2016年

10月

06日

第25回RC:Dialogue【美読会//人工地獄めぐり2(理論篇)】

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2015年

8月

03日

第16回RC:Dialogue【美読会//とりあえず、読んでみようかアーレント】

「分かりやすさを疑うために」

今回は、全体主義(ナチス・ドイツ)を徹底的に分析した政治哲学者ハンナ・アーレントです。人類が民主主義を獲得してから長い年月が経ったにも関わらず、ヒトラーを指導者とした反ユダヤ主義を標榜するナチス政権が誕生しユダヤ人に対して非人道的な虐殺行為を国家政策して行いました。d近代はなぜヒトラーを生み出したのか?

彼女の書籍は長い間読み継がれていますが、ここ近年、とくに注目を集めています。あるいは、彼女を含めた政治哲学そのものが人気を集めています。少し前にNHKで白熱教室として登場したサンデルも政治哲学者です。なぜこれほどまでに政治哲学が見直されているのか。
人々は、近代あるいは民主主義そのものに対して疑問を持ち始めています。近代の理想としていたマルクス主義は官僚国家であり、資本主義は格差社会を生み出しただけでした。それは近代の理念そのもの疑われているといえるでしょう。

それは近代とともに生み出された市民の理想である芸術も例外ではありません。近年ではその理想は忘れられ、投資の対象であったり、自己顕示欲のための道具のようになっています。私たちにとって芸術とはなにか、あるいは民主主義とは何かを考えていきたいと思います。

RC:Dialogue代表 杉村順


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●日時:2015年8月30日(日)15:00~

15:00 【美読会//とりあえず、読んでみようかアーレント】
18:00 【楽しい飲み会(希望者のみ)】

●参考図書
アーレント『人間の条件』序文

(必ずしも読む必要はありませが、あらかじめ読んでいただければより深い理解ができるかと思います)

●場所:大阪市内の地下鉄阿波座駅から6分(参加していただける方に直接ご連絡いたします。)

●参加費:無料(要予約、定員10名、【飲み会】は割り勘です)


Facebookイベント欄


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(美読会の進め方)
・アートについて話す(アート=美術+哲学+宗教…)
・司会進行はせず各自が資料を持ち込むなどして座談会形式でおこなう。
・プロジェクターを使ったレクチャーをしない。
・アート紙を使って自由に書き込む(お絵描き可)
・一人で本を読むのもよし、目当ての人と話すのもよし。
・飲食自由(軽食用意していますのでセルフサービスで)
・途中参加、途中退席OK。
・だれでも参加できるようにしたい。
・友達も誘ってください。

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2015年

3月

31日

第13回RC:Dialogue【美読会//ディスコン・クエスト】



『勇者募集!』

 



 本来はディスコンという言葉は「製造中止」「販売中止」というのが意味です。ですがここでのディスコンはなにかを中止するわけではなく、最近発売された書籍のタイトルである「ザ・メディウム・オブ・コンティンジェンシー」を略した言葉です。

 今回の書籍は過去の美読会のなかでも最強だと思われます。この敵を倒すには、最強の仲間とパーティーを組むことが絶対条件。この試練を途中で投げ出さず(中止せず)、これを達成すればきっとキミは本物のアート界の勇者となれるだろう。

 ということで、読書会しますので興味のある方は参加してください。よろしくお願いいます。

 

 

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●日時:2015年4月26日(日)15:00~

15:00 【美読会//ディスコン・クエスト】
18:00 【楽しい飲み会(希望者のみ)】

●参考図書

ロビン・マッカイ, レザ・ネガレスタニ, エリ・アヤシュ
『ザ・メディウム・オブ・コンティンジェンシー』
http://www.amazon.co.jp/ザ・メディウム・オブ・コンティンジェンシー-ロビン・マッカイ/dp/4939148491

(必ずしも読む必要はありませが、あらかじめ読んでいただければより深い理解ができるかと思います)

●場所:大阪市内の地下鉄阿波座駅から6分(参加していただける方に直接ご連絡いたします。)

●参加費:無料(要予約、定員10名、【飲み会】は割り勘です)

 

●連絡先:rcdialogue☆gmail.com(☆を@に変えて連絡ください)

件名は「美読会参加希望」と書いて送ってください

 

Facebookイベント欄

 

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(美読会の進め方)
・アートについて話す(アート=美術+哲学+宗教…)
・司会進行はせず各自が資料を持ち込むなどして座談会形式でおこなう。
・プロジェクターを使ったレクチャーをしない。
・アート紙を使って自由に書き込む(お絵描き可)
・一人で本を読むのもよし、目当ての人と話すのもよし。
・飲食自由(軽食用意していますのでセルフサービスで)
・途中参加、途中退席OK。
・だれでも参加できるようにしたい。
・友達も誘ってください。

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2015年

1月

02日

第12回RC:Dialogue【美読会//柳田國男の妖怪イニシエーション】

百鬼夜行絵巻より
百鬼夜行絵巻より

 

 (追記)29日は夜に『花見』します!『花見』の参加だけでもOK。連絡ください。


(大阪のさくら見頃予想)

 http://sakura.weathermap.jp/area.php?city=Osaka

 

 

 

今年最初のテーマは民俗学です。
3.11の震災以後の社会において「日本」であることが強調されるようになってきました。
そうしたなかで、明治から大正、昭和を通じて日本を考えてきた学者がいます。
それは柳田國男です。彼も関東大震災という国難を経験しています。
彼は日本各地における伝承、習慣を蒐集することによって今の日本を読み解こうとしました。
天狗、河童、座敷童子など妖怪が語られる『遠野物語』や『妖怪談義』が生み出されます。
しかし、柳田國男は学者である前に官僚として日本の行政に深く関わってきました。
彼は近代化によって失われていく古きよき時代の日本の姿を残そうとしてのではありません。
近代化しきれない日本の過去を観察、記録によってオルタナティブな日本のあり方を作り出そうとしました。

 

「食物のような卑近な物質的な生活様式ですらも、

みな背後に信仰なり人生観なりの裏づけがある」

「郷土研究の第一義は、手短に言うなら平民の過去を知ることである。
平民の今までに通って来た道を知るということは、

我々平民から言えば自らを知ることであり、即ち反省である」と柳田は語っています。

彼は身近な出来事や習慣から、近代を受け入れた社会のなかで今の私たちを探ろうとしました。

私たちも柳田國男を通してこれからの日本を考えていきたいと思います。

 

 

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●日時:2015年3月29日(日)15:00~

15:00 【美読会//柳田國男の妖怪イニシエーション】
18:00 【楽しい飲み会近くで花見します!

●参考図書
大塚英二『社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門』角川EPUB選書
大塚英二『「伝統」とは何か』ちくま新書
柄谷行人『遊動論 柳田国男と山人』文春新書

 

●場所:大阪市西区阿波座周辺(参加者のみ詳細を通知)


●参加費:無料(要予約、定員10名、【飲み会】は割り勘です)

どなたでも参加できますので、気軽に申し込んでください。
 

●連絡先:rcdialogue☆gmail.com(☆を@に変えて連絡ください)

件名は「美読会参加希望」と書いて送ってください

 

Facebookイベント欄

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2014年

9月

27日

第10回RC:Dialogue【美読会//細井律『細井律の使い方』・モモコフ『脱広告論』】

今回の美読会ではいつもの論文の読書会ではなく
細井さん、モモコフさんにプレゼンをしていただくことになりました。
お二人が美術とのかかわりのなかで考えていることを発表していだたきます。
発表された問題提起に対して、活発な議論ができればと思います。
美読会の趣旨のひとつとして「制作方法を共有」と言うのがあります。
それは思考過程を共有するという意味でもあります。
他者の思考方法を自分のこととして捉え、

ブレインストーミング方式(集団的発想法)で進めることで
ひとりでは思いつかなかったアイディアを導き出せるような

意見交換にしてきたいと思います。
詳しい内容は順次投稿していいきますので、よろしくお願いします。


RC:Dialogue代表 杉村順

●日時:2014年10月5日(日)15:00~

15:00 【細井律『細井律の使い方』】
16:00 【モモコフ『脱広告論』】
18:00 【楽しい飲み会】
 

●場所:大阪市西区阿波座周辺(参加者のみ詳細を通知)


●参加費:無料(要予約、定員10名、【飲み会】は割り勘です)
 

●連絡先:rcdialogue☆gmail.com(☆を@に変えて連絡ください)

件名は「美読会参加希望」と書いて送ってください

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2014年

9月

27日

【藤田直哉『前衛のゾンビたち-地域アートの諸問題』を読んで】

 この論文で重要なことは美術の質(美的価値)の問題を指摘していることだと思う。「現代美術の世界が、「問題提起」そのものが芸術性の証明であるかのような傾向を持って」くるようになり、「「地域アート」が、現代アートの中心的な活動の場になったことを巡って、「美」というもののありようが変化してきている」ことになぜなったかといえば、美術の批評理論が強力な力を発揮していた普遍的な美を求める時代からポストモダン以降の大きな物語(マルクス主義の思想的崩壊)の失墜によって多様化(島宇宙化)した社会状況のなかで、美的価値基準を失った批判は不可能となってしまい、エリート主義的な批評理論の対象である「物質的表現」よりも参加するだけで美術とのかかわりを証明できる「関係的表現」そのものを重視するようになったといえる。例えていえば、エリート主義的に自己の解脱だけを目的とした小乗仏教から「南無阿弥陀仏=アート」と一言唱えれば極楽に行ける大乗仏教への移行だと言える。近代オリンピックの創立者であるクーベルタン男爵が「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」と言ったといわれるように、地域アートの表現は参加することにこそ意義があるということだ。(もちろん人材育成や教育普及のための補助金や助成金の存在も大きい)

  アートにおける公共性ということを考えた場合、そこに共通するのは「場に集まる」ということでしかない。それが和を尊ぶ精神性を持ち合わせる日本人によって捻じ曲げられた「関係性の美学」の理論(ブリオー自身は「関係性を提示すれば良い作品ができる」と言ったわけではない)が、場に集まって仲良く楽しむというマイクロ・ユートピアな予定調和状態を支える理論的バックボートとなり、鑑賞者が参加するだけで作品の質は問われることなく、作品として完成することのない作品が公共性を盾に批評性(都合のわるい「他者の言語」)はあらかじめ排除されてしまっている。また、作家の選定においても地域に都合のわるい内容の作品は採用されず、地域との関係を乱さない人畜無害な表現だけが求めれられるように検閲されてしまっているのではないだろうか。地域に招聘されたアーティストの作品を拒否したという事例を聞いたことがあり、川俣正のアート・バーゼルでの騒動とも関係してくるかもしれません。

 最も成功している「町おこし」と言えば、高知発祥で全国に広まったの「よさこい祭り」だ。はたして「よさこい祭り」は地域参加型アートと言えるのだろうか。論文で「「単に素朴」なものの肯定が起こり、結果としてプレモダンに日本の美術が後退してしまう」との指摘は、アートと「よさこい」の判別につけがたさにもあらわれているのではないだろうか。鎌倉末期の時宗念仏や江戸末期の「ええじゃないか」にみられるものとおなじような土俗的なプレモダン現象であるといえる。民俗学の「ハレ・ケ・ケガレ」論の観点から考えれば、地域アートの祭りとしての役割は、穢さ(ケガレ)れた日常(ケ)を浄化(ハレ)させる作用があり、人類学的、精神病理学的な考察ができる。しかし、そこには大きな違いがある。けっしてそれらの現象が現代において自然現象のように広がっているのではなく、行政、国家との強いつながりによって主導されていることを見落としてはならない。論文のなかで注意を促しているように、素朴に「プレモダンを選び取る」ことの「意識的でないところが、問題」なのではないだろうか。

 地域アートは行政を介して地域内の人々は自己を承認してもらう他者(部外者)としてアート(アーティスト)を廉価に利用しているだけであり、共同体を維持するための道具として村の祭りを行っているという側面(その効果どれほどのものかは疑問だが)があることは否定できない。しかし、その考えは不自然なものではなく、美術と国家(行政)とのかかわりが深かったのは明治以後の日本の美術状況を考えたときに、きわめて自然なことだといえなくもない。国家による内国勧業博覧会の開催、公設展覧会の組織化や戦争画までつづく一連の美術表現はすべて公共性の名ももとで行われたといえる。それが美術の本来の姿であると考えるのであれば、建前であったとしても公共性にもとずいた地域アートは美術の本質を体現しているといえるだろう。この考えは「私が私であること」の個人主義的な表現と齟齬をきたすことはない。個人的概念の意識が欠如した社会で近代国家は成立しない(でもアナーキズムもあるけど・・・)。

  それは近代的理念が初めて成立した西欧において同じことがいえる。フランスで市民革命を実現した革命政府は、ルーブル美術館(1973)と産業博覧会(1798)を市民に祝祭的空間施設として公開している。しかし、それは伝統的な祝祭がもつ「無礼講」などの逸脱するような行為ではなく、政治的な理念を啓蒙する(あるいは自己の行為を正当化する)プロパガンダの役割を持っていた。多木浩二は『「もの」の詩学』のなかで「それ(芸術としてもの)は美術館の成立と固く結びついている」。そして「公共的な美術館が生まれるためには新古典主義的思考が必要であり」、「ある種の「もの」が美術館と結合するかぎりにおいて「芸術」として成立する現代の経験の大枠が、大革命の前後十数年を中心に生じてくるのを見ることができる」としているように、芸術と国家との結びつきは西欧においても強固なものがあるといえるだろう。デュシャンのレディ・メイドは制度によって保証された美術作品が「もの」でしかないと批判したのは、「もの」から「作品」の移行を「作品」から「もの」へかえす試みであり、地域アートの活動も結果的に作品をもの化することに貢献しているといえる。
 
 そもそも単純に考えて関係性をもつことなく作品をかかわることができるのかという素朴な疑問だ。「アクション」のない美術作品は存在しないことと同じで、ことさら関係することを主張したところであまり意味はない。単に自己の立場を確立するためにレトリカルな言説を作り上げたいだけなんではないかと思ってしまう(あるいはレトリカルでない言説は幻想か?)。人が作品を鑑賞している以上、そこに関係性がうまれるのは当然の話しだ。もし地域系アートの場合、作品との関係のあり方がいままでの鑑賞方法と違うというのであれば、その関係によって生み出された作品の質こそ批評の対象とすべきであろう。批評が欠落したまま関係そのものが正当化される状況には疑問を感じる。「地域アート」だからといってそれだけで作品の評価に結び付くわけではない。個々の作品について批判的に評価することが必要なのは言うまでもない。
 
 作家と作品との関係においても同じこといるだろう。地域アートの場合は作品に鑑賞者を参加させることを目的とするが、画家が絵具をつかって絵を描くように、地域系アーティストにおいても鑑賞者を作品の素材(道具)として扱うことによって作品が成立しているといえる。あるいは岡崎乾二郎が文庫版「経験の条件」のあとがきで書いているように「媒体=メディウムを単なる手段ではなく、それ自体が自律した系として変化し運動する、独立した回路だと考えるべきであること、メディウムをむしろ人と対等に対向する別の主体と考えるべきであるとの発想」によって、「それと協働することで新たな運動を形成する」ことができるとする。そこには一見すると人は介在していなようにみえるが、表面的な理解はメディウムを人として扱うことによるダイナミックな関係性がうみだされている。
 
 芸術というのは人類が誕生したときからそれ以外のものから区別されてきた概念ではない。ダントの芸術終焉論で「芸術であるといえばそれが芸術になる状況」を経験している私たちにおいて「芸術のための芸術」であると自律性を主張することは歴史的なものでしかいとういのは自明なものとなっている。ダントのいうアートワールドが言説の重要性を説いたように、作品を含めた「もの」が関係性のうえで成り立っているものであるといえる。多木浩二が「ここで「もの」というとき「出来事」と截然と区別しているのではなく、「もの」という実在感ないしは物質感の強い言葉もその相互関係や転移を前提にした上で使っているにすぎない」。そして「「もの」と「出来事」が浸透しあい、新しい「芸術」がやがてそこから生じ、また「芸術」が絶えず照合されなければならない地層が形成されている」「文化のトポス」であると説明している。
 
 キルケゴールは「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか。精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか。 自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」ことを『死に至る病』の冒頭で人間とは何かと論じているが、キルケゴールが考える人間の基本的な条件とは、世界は関係によって作られてるがその関係さえ組み替えることができるとしたところではないだろうか。それが実存主義の始まりといわれている。芸術の役割とはなんであろうか。坂口安吾がいうように「鎮静剤」として、あるいは「安楽椅子」「癒し」としての作用しか持ち獲ないものであろうか。もし美術の役割が「世界を全的に変えてしまうような力(私達に新しい世界を気づかせてくれること)」にこそ美術の役割や批評性があるのではないだろうか。批評性を持つためにはある価値基準を確立する必要がある。しかし、大きな物語が失墜し日々状況が変化するなかで抑圧的に作用する価値基準(美的価値)を共有しようとすることはきわめて困難な道だ言わざるを得ないだろう。

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2014年

7月

28日

第9回RC:Dialogue【美読会//クレメント・グリーンバーグを読む】

 

 

今回はグリーンバーグの論文「アヴァンギャルドとキッチュ」と

「モダニズムの絵画」を読みます。
美術を理解する上で欠かすことのできない基本中の基本です。
当たり前すぎてすでに知っているという方もいるかとは思いますが、
「初心忘るべからず」ということを美読会で取り上げました。
この論文に対しては表面的な理解だけでなく、
みなさんとできるだけ深く掘り下げて読み込みたいと思います。


RC:Dialogue代表 杉村順


●日時:2014年8月31日(日)16:00~21:00   
16:00 【美読会//クレメント・グリーンバーグを読む】
18:00 【綾乃の楽しい食事会】
21:00  たぶん終了

 

●場所:大阪市西区阿波座周辺(参加者のみ詳細を通知)


●参加費:¥1,000円(要予約、定員10名、勉強会のみの参加は無料)
 
●条件
【美読会】:参加者全員に感想を聞きたいと思いますので、ある程度考えてください。

【食事会】:お酒を飲む人はお酒の持ち寄り(自分が飲むぐらいの量が目安)
 
●運営メンバー:杉村順、平川綾乃、下山由貴

 

●連絡先:rcdialogue☆gmail.com(☆を@に変えて連絡ください)

件名は「美読会参加希望」と書いて送ってください

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2014年

6月

01日

第7回RC:Dialogue【美読会//ブリオー×ランシエール論争を読む】

●日時:2014年6月15日(日)15:00~21:00   
15:00 【美読会//ブリオー×ランシエール論争を読む】
18:00 【綾乃の楽しい食事会】
21:00  たぶん終了
 
●場所:大阪市西区某所


●参加費:¥1,000円(要予約、定員10名)
 
●条件
【美読会】:各自好きなところを要約してサイボウズに掲載する。
参加者全員に感想を聞きたいと思いますので、ある程度考えてください。
論文に関係のある画像や文章を投稿してみんなで事前に意見交換をしましょう。

【食事会】:お酒を飲む人はお酒の持ち寄り(自分が飲むぐらいの量が目安)
 
●運営メンバー:杉村順、平川綾乃、下山由貴

 

●参加希望の方は下のコメント欄から連絡してください

 

美読会風景
美読会風景
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2014年

1月

26日

第4回RC:Dialogue【美読会//生政治と他者の倫理:アート=証言】

コンテンポラリーアートセオリー
『君は生き残ることができるか』

 

 

みなさん、元気ですかー

今回の美読会は最強の批評書『コンテンポラリーアートセオリー』です。

去年はこの本がいつ発売するのか待ちきれない思いでいました。

その本がようやく郵送されたときのことの感動は今も忘れられません。

この本に収録されている諸論文は

これからアートを実践しようとする人たちにとって欠かせないものとなっています。

ゼロ年代の日本において美術批評は皆無でした。

今回、こういった本が増えることで日本の美術も変わることができるかもしれません。

私たちもその一端に触れる場にしていきたいと思っています。

 

 

 

 RC:Dialogue代表 杉村順

 

 

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●日時:2014年3月9日(日)14:00~21:00   

14:00 『現地集合&情報交換』(自由時間)

15:00 【美読会//生政治と他者の倫理:アート=証言】

18:00 【綾乃の楽しい食事会】

21:00  たぶん終了

 

●場所:大阪市内

 
●参加費:¥1,000円(要予約、定員10名

 

 
●条件

 

【美読会】:各自自分なりの「まとめ」をサイボウズに掲載する。

【食事会】:お酒を飲む人はお酒の持ち寄り(自分が飲むぐらいの量が目安)

 

●企画者:杉村順、平川綾乃

 

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2013年

10月

31日

第2回RC:Dialogue【美読会//芸術の終焉の後の芸術】&【we think about you//平川綾乃を考える】

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2013年

10月

16日

第1回RC:Dialogue【美読会// 敵対と関係性の美学】&【絶守企画】

日時:2013年10月27日(日)13:00~21:00   

13:00 『現地集合&情報交換』(自由時間)

14:30 【美読会//敵対と関係性の美学】
16:30 【絶守企画】

18:00 『(仮称)綾乃の楽しい食事会』(持ち込み大歓迎!)

21:00  たぶん終了

 

場所:参加者だけ告知

 
参加費:無料(招待制)

 

課題

【敵対と関係性の美学】:「指定箇所の文章をまとめる」

 

企画:杉村順

 

次回予定

【美読会//芸術の終焉の後の芸術】

【絶守企画】

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2013年

9月

08日

京都国立近代美術館『映画をめぐる美術  ――マルセル・ブロータースから始める』アーティスト・トーク田中功起

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2012年

7月

14日

RC:Dialogue『テーブルトーク《現代美術は語る》』

 

 

●日時:2012年8月5日(日)14:00~16:00ぐらい

●場所:中之島デザインミュージアム カフェde sign de >cafe(人数が増えすぎたら場所かえるかも)
  • 京阪電車中之島線「中之島駅」4番・5番出口よりすぐ西
  • JR大阪環状線「福島駅」またはJR東西線「新福島駅」(2番出口)より南へ徒歩約8分
  • 阪神電車「福島駅」(西3番出口)より南へ徒歩約8分
  • JR大阪駅前より市バス53系統船津橋行き、または55系統鶴町四行きで約15分「堂島大橋」バス停下車すぐ
  • 中之島ループバス「ふらら」(有料)で、淀屋橋(土佐堀通/住友ビル一号館前)より約10分「リーガロイヤルホテル前」下車すぐ

●図書:ディ・アントニオ&タックマン『現代美術は語る -ニューヨーク・1940-1970』青土社

●内容:この本は、インタービュー集になっていて、戦後アメリカで活躍した美術家や評論家、キュレーターなどの美術関係者が当時、どのようにしてアメリカ美術を作ってきたのか、あるいは世界のアートシーンの中でムーブメントをつくるためにどのような苦悩してきたのかが、当事者たちの生きた声が聞けるようになっています。そのころのアメリカ美術は今のように美術の中心地(もう言わないかな?)ではなく、どちらかと言えば、後進国でした。それまでの美術先進国はフランスを中心としてヨーロッパ美術であって、アメリカにおいてもそれはあこがれの対象でした。しかし、第二次世界大戦を経る中で疲弊したヨーロッパに比べてアメリカは無傷だったこともあり、アメリカに政治的にも文化的にも覇権を握るチャンスが巡ってきたというわけです。そういった、歴史的な背景のなかにあった、美術関係者たちのアメリカ美術を作り上げるまでの変遷を語っている貴重な書籍となっています。それは今の日本の置かれた状況を考えた場合に参考になるのではないでしょうか。作家におけるとるべき態度とは何なのか。美術関係者必読の書。

●進行:
「勉強会の進め方は当日までに指定図書を読了をする。(無理だったら参加だけでもOK!)」
「担当者が読んだ章のまとめた内容を発表をする。(担当者はすでに指定しています)」
「その発表を受けて、各自が疑問、感想などを頭の整理ができるようにテーブルに置かれた一枚の紙に書き込む。(白板がほしいところ)」
「終了後二次会に皆で行きましょう!(これが目的だったりして(笑)」
    

●主催:RC:Dialogue 杉村順 
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2012年

4月

11日

「第二回美読会《art since 1900》」

(ホテルのロビー)
(ホテルのロビー)
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2012年

4月

04日

『第一回美読会《art since 1900》』

勉強会の風景(青木アトリエ)
勉強会の風景(青木アトリエ)
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2011年

8月

28日

『アートシェア』

表現を共有する。意見交換。思考交換。

オープンソース。クリエイティブコモンズ。集合知の形成。

アートシェア。注意:所有権の共産化を目的としない。開かれることを目指していない。

様々な共有のあり方を考える。分配の方法(資本主義社会、帝国主義社会、共産主義社会)

鑑賞者が鑑賞者である必要はない。

デュシャンの「グリーンボックス」

作品プランの共有。タイトル(RC:Dialogue)

1対1の場合。(互いに作品プランを交換する。)

複数の場合。(作品プランをプールするプラットフォームをつくる。)

プラットフォームの特徴。(作品プランの提供、コメント、制作。)

「アイディア表現の二分法(idea/expression dichotomy)」

http://www.law.co.jp/okamura/copylaw/chyo03.htm

著作者の権利が保護するのは「表現」であり、「アイデア」ではない。

しかも、実制作した作品をその作家に所有権があり、販売を可能にする。

あるいは、その作品プランについて資金提供を募る。

 

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2011年

7月

16日

美術を知るための参考文献

北澤憲昭「眼の神殿」 多木浩二「ものの詩学」 ゴドフリー「コンセプチュアルアート」 松浦寿夫、岡崎乾二郎「絵画の準備を!」 松宮秀治「ミュージアムの思想」
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2011年

7月

06日

岡本太郎2

「我々が伝統と考えるものは己の外にあるのではない。それは必ず自己×過去である。己というものを土台にし、常にそれを通して過去を見るのだ。そして我々は決して正直に見ているのではない。己のテンペラメントに符合させ、都合のよい面だけを取り上げる。云い変えれば意識、無意識に、己の与えられた市を正当化する為の努力が全面的にはたらくのである。私はそれが悪いと云うのではない。実施に、自己を外にして成立つ伝統というものは決してあり得ないからである。

 伝統とは何らかの形に於いてそれに己を賭すものであり、主体的にあるものである。だからこの場合自己は最も積極的な動機である。自己が先鋭化すればするほど却って断絶の相貌を呈し、そこに殿津はyり激しく、豊かに弁証法的に受け継がれる。ところで所謂伝統主義者達は自己を賭けるものではない。伝統という既成の観念によりかかり、却って己を消し去る。そして恰も不動不変の伝統という権威があるかのように振る舞うのである。ここには大きなごまかしがある。伝統の実体が何であるのかは、実は彼ら相互の間でも個々の功利性が働いて全く混乱しているのだ。しかし彼らは「伝統」という錦の御旗をかかげ、それを狡猾に利用して新しい時代の動き、つまり真に伝統を推し進めるものに対して必ず反動的に働くのである。「わび」「さび」「渋み」等の封建的な奴隷的諦めの気分を基底とする「味」の世界を有効な伝統の如く主張し、蒙昧にも芸術の新鮮な動向を否定しようとするのは、まさにそれである。

繰り返して云うが、伝統とうものは決して展純な過去ではなく、却って現在的なものである。そして不動不変ではない。むしろ常に変貌し、瞬時も同一ではない。動的にこれを把握しない限り、主体的に生かし、推し進めるっことは出来ないのである。

時代遅れの伝統意識にこだわって縄文式を異質なもの、無縁なものと考える必要はみじんもない。それが我々の直系の祖先によって作られたものであとうが無かろうが、何の意味もなさないのである。とかく封建的意識、習慣から血統というものを神秘化し、絶対的な因子であるかのように考えるのは全くナンセンスだ。我々の血液は複雑な混血であり、直系の祖先を求めることなど不可能である。

むしろ、あの原始的逞しさ、純粋さ、つまり人間に於ける根源的情熱を今日我々のものとし取り上げて、豪傑、不敵な表情を持つ新しい伝統をうち建つべきである。それこそ日本に於けるアヴァンギャルドの大きな課題ではないだろうか。」(『縄文土器論』より)

歴史がフラットではありえない。

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2011年

7月

03日

作品メモ

p4:書道の墨
p4:書道の墨
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2011年

7月

01日

インタラクティブな作品についての疑問

一つの表現を多くの人と共有するのを賛成することを前提として、ある芸術作品(特にインタラクティブな作品)を説明す場合に人と人の交流を強調することがあるが、どうしてもそこに偽善的なものを感じてしまう。美術において人が人と交流するのは結果であって、目的であっていけないと思う。例えば中高年の女性(おばちゃん)が、見ず知らずの人と話すきっかけに、飴玉を配ることがあるが、その飴玉の役割は会話を円滑に進めるためのツールであり、「渡す」「受けとる」という一連の行為によっておばちゃんという共同体が成立することになる。飴玉の受け渡しの行為はコミュニティーの形成の為には必要なイニシエーションである。飴玉授受の通過儀礼の儀式を経たものだけがその共同体に参加することが許される。おばちゃんのネットワークは拡げられその共同体はますます強化されていくだろう。それを強化するためだけの飴玉にどれだけの意味があるのか。
 現代美術という言われている表現活動においても、この飴玉と同じような役割を担った作品が存在する。その作品は決してその共同体を解体することはない。ただ強化するためだけのツールとしてその役割を担わされている。飴玉(作品)決して共同体を破壊しない。しかし革命的な作品には得体の知れなさが作品(飴玉)に内在しているはずである。その物体Xを受け取ることで共同体は強化されない。もしかしたら、共同体にディスコミュニケーションしかもたらさないかもしれない。そんなリスクを持った物体Xを私は求める。
 まず美術において大前提なのは、その作品と対峙をすることである。それを抜きにして人と人の繋がりを強調するならば、はじめから作品ぬきで人と対話をすればいいのではないかと思う。圧倒的に私が期待するのは、作品を見たいと思う欲望だけである。ただ単純に見ることも喜び。しかし、人との交流を目的とする多くの作品(飴玉のような)においてその表現があまりにも貧困である場合がほとんどだ。その造形がないがしろにされている。なぜ私がその種の作品を嫌悪するかと言えば、人との関わり持つ場所(世界)を否定しないことだ。その土台を自明のものとしてしまうことに疑問を感じる。
 真の作品はあるいは、岡本太郎的に表現すれば「あらゆる対象への無条件な挑みをつづける」表現は、簡単にその土台を解体してしまうだろう。危険な作品とはそのようなものだ。解体されたとしても先に進むことができる力。解体された先にできた場において共有できる対話こそ創造的だ。

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2011年

6月

26日

sm(p13-16)

レキシントン 破産 ラマダーン 半地図
せっけん 目覚まし時計 月の笛 ロウソク
貨物船 シャツ ヤク線
船乗り 黄病
ヤク 心臓 アメリカ人 エロ写真
ラマダーン パンきりナイフ マドリード 天井
モルヒネ キューバ人 扇風機
ユーコダル 処方箋 ホモ 操短
空箱 黄札 包丁 肛門
目覚まし時計 心臓 クレゾール
志望 カーブ ファンダドール せっけん
モルヒネ ハーフ・ボトル トウモロコシ
浣腸器 処方箋 ユダヤ病院 ツラ
粉末コデイン錠 ロウソク 空き地
重曹 ヤク デメロール注射 真空管
処方箋 電気 電線
コーヒー 銀行券用紙 水道 アメリカ人
千ドル紙幣 墓地
毛布 不名誉除隊票 空壁 埋葬
タバコ 小部屋 目覚し時計 娘絶叫
こげ穴 ヤク 到着時死亡 カスパ
墓地 調製 ユダヤ病院
埋葬場所   電気 合衆国
    水道 売人
    ブツ
    アメリカ人 吸引量
    灰色肉 小便
    船乗り しびん
    コーヒー サツ
    処方箋 変質者
    死人 ヒヒノケツ
    貨物船 サソリ
    肛門  
     
    領事  
    メキシコ人  
    五発  
    せっけん  
    禁断症状  
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2011年

6月

23日

岡本太郎

既成の権威は己の地位を護るために現状維持をねがい、保守的となり、自動的に反動の立場をとる。もり上がって来る新しい力はそれを無慈悲に打ち倒さなければならないのだ。だからこそ若い世代は常に公認の画壇や批評家からは危険視され、いかがわしいものとして悪罵される。それはむしろ必須の条件である。一方にとっての芸術は他方にとっては運命的に非芸術なのだ。この相互否定の契機が深刻であればある程、却って激しく芸術は弁証法的発展を遂げるのである。だから、ますます嫌悪の戦慄を与えるような革命的な仕事が要請せれる訳なのである。

 芸術は自然科学とは異なり、連続的な発展をたどるようりも断絶によて想像的に飛躍する。この発展形式は非連続の連続なのである。神は斃されなければならない。ピカソの権威が新しい芸術家によって妥当されることは芸術史の要請である。全世界に於いて、未だにそれがあし遂げられていないということ、そこにこそ現代芸術の不幸な停滞があり、最大の危機があるのだ。(『青春ピカソ』)

 

いったい芸術に於いて単に眺めるという立場があり得るであろうか。真の鑑賞とはどうじに創るということでなければならない。観ることと創ることは同時にある。これは私の芸術論の重要なポイントであり、最も近代的な芸術の技術の根底として取り上げ、既に他の場所で十分に展開した問題である。だがここでは到底その全幅にふれる余裕はないので、鑑賞が如何に創造的であり得るかということを一言説明するに止めたい。

 創るとは決してキャンバスに向かって筆をとり、絵の具を塗ることだけではない。それは全く形式的で素朴な考え方だ。己の世界観に新しいホリゾンを内開くことが実はクリエートなのである。真に芸術作品に対した場合、鑑賞者は己の精神の中に何らかのセンセーションによって、新たに何ものかが加えられる。というよりも己れ自身に己が加えるのであるが。精神は創造的昂揚によって一種のメタモルフォーゼを敢行する。だから芸術作品と対決する以前と以後の鑑賞者の世界観、平たく云えば物の観方自体が質的に飛躍するのである。つまり創造であって、そのような創造のばなしには芸術、並びに芸術鑑賞は成り立ち得ないのである。だからこそ観るということは同時に創ることなのだ。対する作品となる。そしてもし作者以上積極的に対決を挑むならば、鑑賞者は何らかの形に於て創作家を乗り越えるのである。つまりピカソ芸術はただに讃仰するばかりでは鑑賞自体が成り立たないのだ。

 

(ピカソ曰く)「芸術家の作品が問題なんではない。芸術家自体のあり方なのだ。たとえセザンヌが彼の林檎を十層倍も美しく描いたとしても、もし彼がジャック・ミエール・ブランシュ(現代の著名な官展派画家)の如き生活をしていたとしたなら私には少しも興味がないだろう。我々にとって重大なのはセザンヌの懐疑、教訓であり、またゴッホの苦悩である。即ち芸術家のドラマなのだ。あとの全ては虚偽である。」

 

もし芸術が単に爛熟した文化の上にのみ咲く花であるとすれば、以上のような機械論が成り立たないでもない。しかし芸術に於いては最悪の条件こそ最大の飛躍の契機となるということを私は信じるのである。散文的な現実生活の矛盾苦悩は勿論精神をいためつける。しかしそれでよいのだ。最も逞しく、繊細な精神は己を制約し痛めつける物質と激しく対決する。その猛烈なぶつかりあいによって生じる火花にこと、私は真に人間的な生命と、芸術の姿を見るのである。

 

 

我々が伝統と考えるものは己の外にあるのではない。それは必ず自己×過去である。己というものを土台にし、常にそれを通して過去を見るのだ。そして我々は決して正直に見ているのではない。己のテンペラメントに符合させ、都合のよい面だけを取り上げる。いいかえれば意識、無意識に、己の与えられた市を正当化する為の努力が全面的にはたらくのである。私はそれが悪いと云うのではない。実際に、自己を外にして成立つ伝統というものは決してあり得ないからである。

伝統とは何らかの形に於いてそれに己を賭すものであり、主体的にあるものである。だからこの場合自己は最も積極的な動機である。自己が先鋭化すればするほど却って断絶の相貌を呈し、そこに伝統はより激しく、豊かに弁証法的に受け継がれる。ところで所謂伝統主義者達は自己を賭けるのではに。伝統という既成の観念によりかかえい、却って己を消し去る。そして恰も不動不変の伝統という権威があるかのように振舞うのである。っこには大きなごまかしがある。伝統の実体が何であるかは、実は彼ら相互の間でも個々の功利性が働いて全く混乱しているのだ。しかし彼らは「伝統」という錦の御旗をかかげ、それを狡猾に利用して新しい時代の動き、つまり真に伝統を推し進めるものに対して必ず反動的に働くのである。「わび」「さび」「渋み」等の封建的な奴隷的諦めの気分を基底とする「味」の世界を有効な伝統の如く主張し、蒙昧にも芸術の新鮮な動向を否定しようとするのはまさにそれである。

繰り返して云うが、伝統というものは決して単純な過去ではなく、却って現在的なものである。そして不動不変ではない。むしろ常に変貌し、瞬時も同一ではない。動的にこれを把握しない限り、主体的に生かし、押し進めることは出来ないのである。

時代遅れの伝統意識にkだわって縄文式を異質なもの、無縁なものと考える必要はみじんもない。それが我々の直系の祖先によってつくられたものであろうが無かろうが、何の意味もなさないのである。とかく封建的意識、習慣から血統といものを神秘化し、絶対的な因子であるかのように考えるのは全くナンセンスだ。我々の血統は複雑な混血であり、直系の祖先をもとめることなど不可能である。

むしろ、あの原始的逞しさ、純粋さ、つまり人間に於ける根源的情熱を今日我々のものとし取り上げて、豪快、不敵な表情を持つ新しい伝統をうち建つべきである。それこそ日本に於けるアヴァンギャルドの大きな課題ではないだろうか。(岡本太郎『縄文土器論-四次元との対話』)

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2011年

6月

20日

作品メモ

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2011年

6月

17日

sm(p9-10)

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2011年

6月

16日

バラック装飾社

リンク:村山知義「マヴォ」 、今和次郎「考現学」

関東大震災後には、市街地建築物法(現在の建築基準法)の規定に従った建築を行っていては住居の供給が間に合わないため、特別立法(いわゆるバラック令)により基準を満たさない建築物でも建てることが認められた。これらの多くは、小規模な住居・店舗だったが、中には築地小劇場のような比較的大きなものも建造された。こうした中で今和次郎らが「バラック装飾社」を設立し、商店などのバラック建築をにぎやかにデザインして街を彩った。

 

「今度の災害に際して、在来から特別な主張を持っている私達は、因習からはなれた美しい建物の為に、街頭に働く事を申し合わせました。バラック時代の東京、それが私達の芸術の私見を受けるいい機会だと信じます。」

 

「私は市民社会―その場合ブルジョア階級、今日の言葉でいえばレジャー階級―その工芸というものに身を入れる心情にはなれなかった。(…)とにかく明治末年に私は工芸図案を学んでニヒルにおちたのだ。(…)とにかく私のニヒルの気分が、震災後のバラック装飾社をやらせたのだし、また、考現学だって、ニヒルの気分からやりはじめたものにほかならない」

 

今は震災後の東京における復興過程の民俗学者の視点から観察、記録のフィールドワークを行っていたが、観察を続けているうちに自らが表現者として復興そのものに関わっていく。観察者から表現者への移行。あるいはその連続性。観察(鑑賞)することとはそのまま表現へと結びついていく。

 

村山知義「今迄建築は工芸美術として扱われていましたが、私の意識的構成主義ではこれも純美術としてみられるのです、だからバラックとは限らず永久的の建築物も設計するのです、私達も画室から市へ出なければならない時であると思ってこの仕事を始めたのです。然し従来の建築ではなかなか取り付きようもなかったのですが、この地震で私達の作品を実際に見せる機会が作られたのです。」

 

 

 

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2011年

6月

15日

作品メモ

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2011年

6月

14日

村山知義

リンク:関東大震災シュビッタース「メルツバウ」 、バラック装飾社、バロック

1913年(大正2年)、東京の私立開成中学校入学。母の師であった内村鑑三に師事し、キリスト教に心酔。反戦を主張するキリスト教への信仰から同級生に身体的な暴力を受け、また学内で同期であった戸坂潤らの影響によりショーペンハウアー、ニーチェなどを紹介され、熱中、最終的にはキリスト教を棄教する。1922年(大正11年)1月、処女出版の童話画集『ロビン・フッド』(婦人之友社)刊、ベルリンへ出発。表現派、構成派の美術、演劇、舞踊に魅せられ学業を断念。1923年1月帰国。7月の初め、門脇晋郎、大浦周蔵、尾形亀之助、柳瀬正夢らと前衛美術団体マヴォ結成。7月28日から8月3日まで、マヴォ第一回展覧会が浅草の伝法院にて行われる。7月機関誌「Mavo」創刊。9月1日の関東大震災で都市機能の壊滅に遭遇し、バラック建築の設計にも関わった。マヴォ理髪店、バー・オララ、吉行美容室(吉行あぐりの店)などが知られ、今和次郎のバラック装飾社とともに震災後の建築界で異彩を放った。1925年7月今東光らと『文党』創刊。この頃より次第に前衛芸術運動からは遠ざかった(9月22日朝刊の『東京朝日新聞』、「学芸だより」に村山のマヴォ脱退の記事がある)。

 

MAVO(マヴォ)とは、日本の戦前のダダ(美術系統)のグループ。日本のダダ運動の先駆をなす。

そのメンバーは、柳瀬正夢、村山知義、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎の5人で、関東大震災前の、1923年7月に結成。マニフェストを出して、自らを「マヴォイスト」と称した。同名の雑誌を1924年に創刊し、1925年までに7号を刊行した。グループも、1925年にはなくなっている。

このグループは、絵画よりも、むしろ他の分野を重視し、立体作品(彫刻)、建築、広告・デザイン、演劇、ダンスなど、幅広い活動を行った。また、同時期の「三科」や「アクション」との協働も行っている。

 

「村上が帰国後最初に着手した仕事のひとつに、自体の改築、それ以前に建てた「たった千円の家」に新たにあとりえを増築して「三角の家」にする建築的な仕事があった。村山が1923年6月に二回目の個展を自宅で開催している。このアトリエは母屋の南西に増築した部屋で、作品の展示スペースであり、また「マヴォ」同人たちの会合の鳩もなった。しかし、もっと重要なことは、このあとりえそのものが、芸術家の家として、造形的な作品としての一面を保持したてんである。ちょうどコラージュから三次元的な構成へと歩をすすめた先に、このアトリエ空間がたち現れるのである。その空間はまさしく意識的構成主義にふさわしく雑然としたものであったようだ。妻、籌子の証言によれば、そこは「まるで工場のように荒れ果てている」し、「壁には、壁画だの意識的構成主義の、髪の毛だの、コンクリートだの、切だの、人形だののぶらさがった絵が一杯けて」あり、なんでもかんでも「蓄めこんであるから、物置みたやうで手がつけられない」という、まことに混沌としたダダ的な様相を呈していた。がらくたが詰め込まれたアトリエは、村山の構成的な作品と同じように、すぐにクルト・シュビッタースのメルツバウを想起させよう。(五十嵐利治『大正期新興美術運動の研究』)

 

『都市のあらはれの芸術的方面(美観と云っては語弊があります)に関する私の要望を申し上げれば大略左の通りです。

原理 1.無限の形と色とがあるべきこと。2.即ち形成的表現の無限の段階と範囲とを抱擁すべきこと。

注意 1.市民的な単一さは、それ故最も憎むべきこと。2.目下の急務としては、ロココ、バロック、及び表現派以後の形成芸術的要素を出来るだけ豊富ならしめること。何となればこれ等の要素が最も欠乏しているから。3.上掲の原理は意識的構成主義者にしか解らない。それ故、都市の芸術的方面の創作者が意識的構成主義者であることがすべてに先立つ条件である。』

 

村山知義『1924年(大正13年)、3月3日、東京都復興局が出来、震災後の復興を目的に、帝都復興創案展覧会が企画されている、という話しを聞き込んだ私はマヴォの高見沢、住谷と三人で、当時最も有力な建築家だった中条精一郎氏の駒込のお宅を訪ねて、その創案展覧会に、画家の仲間にも部屋を買い、画家の立場からも創案を出品したいということを提案して、快く容れられた。』

 

『あらゆる構図的絵画はおしまいで、構成的作品の時代が来たが、それも効用のない陳列展観用のお目見得式作品はおしまいになってしまったとすればあとに残るのは建築以外にない』

『建築を実用芸術とする考えを排するのみではなく、建築こそ新時代の芸術であり、究極最上の芸術だとする』

『建築をして翻って現代精神のメルクマールたる「工業」を体現せしむること』

『来らむとするコミュニズムの時代の相の幻を表現せしめること』 

『構成派を差し挟んで前後に、ネオ・ダダイズムがなければならにのだ。今のこの資本主義の日本で、芸術の産業化を叫んだところで何になる。』

 

(wikiより)

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2011年

6月

13日

作品メモ

p9:9000フィート
p9:9000フィート
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2011年

6月

10日

関東大震災

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2011年

6月

09日

作品メモ

p6:自転車と一本の糸
p6:自転車と一本の糸
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2011年

6月

09日

デュシャン『グリーン・ボックス』

1913-14年の『ボックス』については、ちょっと違います。私はそれを箱としてではく、メモと考えていました。一冊のアルバムに、ちょうどサン=エティエンヌのカタログのように、計算とか、たんに何の脈絡もない考察を集めようかと考えたのです。それは引きちぎった紙きれのこともあった・・・。私はアルバムが『ガラス』とともに進行し、『ガラス』を見るときに人々が参照できるようなものになることを望んでいました。私自身は、『ガラス』は美学的な意味で鑑賞されるべきものではない、というつもりでしたからね。本を参照し、両方をあわせて見るべきものだった。二つのものの結合によって、私が好まなかった網膜的な面がすっかり取り除かれるのです。非常に論理的な考えだった。(カバンヌ「デュシャンは語る」)

 

三次元の物体によって影をつくることができることはわかっていましたから、―それはどんな物体でも、太陽が地面の上につくる射影のように、二次元になります―、単純に知的な類推によって、私は四次元は三次元のオブジェに射影されるだろうと考えました。別な言い方をすれば、われわれが何気なく見ている三次元のオブジェは、すべて、われわれが知ることのできな四次元のあるものの投影なのです。これはちょっと詭弁めいたところもありますが、とにかくひとつの可能性です。私はこれをもとに、『大ガラス』の中の「花嫁」を、四次元のオブジェの投影としてつくったのです。(カバンヌ「デュシャンは語る」)

 

デュシャンは多くの構想ノートをとり、それに基づいて「建築家のように」厳密に作図して《大ガラス》を制作していった。それは、芸術的というよりも職人的と呼ばれるような態度である。それゆえ、構想ノートと視覚的産物としての《大ガラス》は、一方が他方の解説あるいは図解なのではなく、メディアの異なる等価物として存在しているのである。デュシャンはそのノートの集積を《大ガラス》と同じタイトルとつけて(通称《グリーン・ボックス》)1934年に出版した。この《グリーン・ボックス》をもとにすれば、デュシャンでなくとも《大ガラス》を制作することは可能なのである。実際、世界中で四つのレプリカが制作されている。(国立国際美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」)

 

何もデュシャンがつくった制作物とまったく同じように制作する必要はない。というより、未完であるということと、ガラス面に亀裂が入っているということを考えても完全に同じものを制作することはでいない。同じものをつくるより、新たな「大ガラス」可能性を、別のあり得る形の可能性を制作の目的とする方が刺激的ではないか。それはデュシャンを越えた世界が広がる。グリーン・ボックスを関数と考えて、それを読み込む制作者が別の解(可能態)を求めることの方向性。

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2011年

6月

08日

デュシャン『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも』

リンク:シュビッタース『メルツバウ』:デュシャン『グリーン・ボックス』 :レーモン・ルーセル

デュシャン『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも』
デュシャン『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも』
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2011年

6月

07日

作品メモ

p5:一本の糸、片足の椅子
p5:一本の糸、片足の椅子
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2011年

6月

06日

シュビッタース『メルツバウ』

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2011年

6月

04日

作品メモ

p7:長針がつっかえる
p7:長針がつっかえる
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2011年

6月

03日

第一次世界大戦

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2011年

6月

03日

作品メモ

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2011年

6月

01日

ヨブ記

リンク:ヴォルテール『カンディード或は楽天主義説』・押井守『イノセント』・宮崎駿『もののけ姫』

ウィリアム・ブレイク「ヨブに襲い掛かるサタン」
ウィリアム・ブレイク「ヨブに襲い掛かるサタン」
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2011年

5月

30日

ヴォルテール『カンディード或は楽天主義説』

リンク:リスボン大震災 ヨブ記・ユング『ヨブへの答え』・ サド『食人国旅行記』 ・ソクラテス

ヴォルテール
ヴォルテール
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2011年

5月

13日

リスボン大震災

リスボン大震災
リスボン大震災
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2011年

5月

04日

東日本大震災(南三陸町を襲う津波)

リンク:リスボン大震災第一次世界大戦・ユダヤ人虐殺・阪神大震災 ・関東大震災

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2011年

5月

01日

RC:Memorandum

アビ・ヴァールブルク「ムネモシュネ」全パネルのリンク構造(「イメージの自然史」より)
アビ・ヴァールブルク「ムネモシュネ」全パネルのリンク構造(「イメージの自然史」より)

 「RC:メモランダム」ではブログとしての形式を使って日々の出来事お単調に書き連ねていくのではなく、記憶に残った事や、後世に伝えたい出来事を断片的なイメージを連鎖的に関連付けることで図像アトラスを形成する。ひとつのイメージは新たなイメージを呼び起こす。呼び起こされたイメージは無数に広がり、枝分かれしたそれぞれのイメージにも無数のイメージが連鎖している。

 3.11でおきたカタストロフィをきっかけとして、連鎖するイメージのアーカイブをはじめたい。このアーカイブを形成するためには他者がイメージへの接続が可能な状態。他者が関わることで予定調和でないものを形成する。そこでのイメージが役に立たなかったり、ちっぽけなものだったとしても集合体として形成することで大きな意思を示せるのではないだろうか。イメージの連続性といった場合に、論理的な連続性をもたせる必要はない。私には論理的思考は持ち合わせていない。大いに破綻してくれたまえ。秩序ある破綻を望む。多いなる矛盾は大きな意思を生み出すだろう。矛盾を許容できない活動に興味はない。意見を集約させるつもりもない。ひとつの解をもとめることを目的としていない。多様なるイメージの連鎖によって生み出される力に期待。しかし協同するこおとを目的としていないので誤解をしないように。ディベートをしたいわけではない。分散型ダイアログ形式ではじめるイメージの連鎖。その連続性をつくりたいと思っている。

 ということで皆さんの参加をお願いしたい。どんな思いつきでも。ちょっとしたきっかけによって大きな流れとなることがあるかもしれない。大河の一滴であらんことを。あるいは蝶の羽ばたきが嵐を起こすように。バタフライエフェクト。関連づけるイメージは絵画だけに限らない。音楽、映像、書籍、ダンス、映画など思い付くものはなんでも。アーカイブそのものが表現とする活動。簡単にいえば、連想ゲームのようなもの。イメージを接ぎ木してい感じで参加してほしい。 顔を覆いたくなる出来事。町を一瞬にして廃墟にしてしまう津波。この現実を見た時、アートに何ができるのか。アートの役割を考える。アートにおいて必要なことは何か。圧倒的な無力感。この惨状に打ち勝つ方法。これから私たちが生きていく方法を考えていきたい。

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